2021年9月5日日曜日

amiibo:ネス(NESS)

「ぼくはネスだ。ぼくはここまで来た。ぼくはもうすぐ ぼくはもうすぐ… ぼくはもうすぐ? どうなるのだろうか。な、なんだこれは ぼくの心が文字になっているのだろうか? それとも…」(ネス)


































 

>ネス

PSIという超能力を持った12歳の少年。平和な町「オネット」に突如飛来した隕石を調査する事になった。深夜遅くに騒がしい隣人のポーキー・ミンチと共に出かけた。そこで彼を待ち受けていたものは「スターマン」と名乗る謎の宇宙人とカブトムシに似た未来世界の使者「ブンブーン」だった。ブンブーンからPSIと地球を救う少年がネスだという事実を聞かされたネスは地球を救う為の冒険に出かける事になる。ネス達の住む星を襲う巨悪ギーグを倒す為にネスは3人の仲間を集めて8つの愛の歌のピースを集める旅に出かけた。

 

ネス達を待ち構える敵はドラゴンや騎士のような中世ファンタジーの世界の敵じゃなかった。ギーグの手先となったポーキーやスターマンなどの宇宙人、UMA(未確認生命体)や一部の狂った大人たちだった。

 

ネスは最終的に8つの歌のピースを集めて3人の仲間と共に肉体を捨ててギーグと直接対決する事になる。しかし、そこに居るギーグは肉体を持った『MOTHER1』のギーグではなく、悪という精神集合体そのものに化けたギーグだった。


 ネスのデフォルトネームの由来は北米版ファミリーコンピューターの略語(NES)から来ているらしい。残りの3人のデフォルトネームはおそらくはスタッフが名付けたんだと思う。

 『MOTHER1』の主人公のデフォルトネームだけはよく分かっていないが、「ニンテン」などと呼ばれている。当時出版された小説の主人公名は「ケン」だった。

 

 

 

 

MOTHERシリーズ

ゲーム『MOTHER』シリーズの著作権は糸井

重里/APE/任天堂の3社にあります。HAL研究所はゲーム開発を行った会社だけであり、明確な著作権所有者には入りません。

 『MOTHER』の公式グッズは任天堂よりもほぼ日手帳などを手掛ける糸井重里事務所からの発信の方が多い気はします。

 

いわゆるセカンドパーティが作ったゲームです。販売元と著作権管理は任天堂帰属ですが、開発や著作権そのものは任天堂に協力開発している会社が行っているというものです。『MOTHER』シリーズの原作は『星のカービィ』や『大乱闘! スマッシュブラザーズ』の開発元で有名なHAL研究所が開発を行いました。

 

しかし、amiiboの著作権表記にHALの名前は入ってなかったので、キャラクターや世界観、シナリオなどはHALが著作権を所持してる訳じゃないのかもしれません。多分、受託開発だったんだと思う。

 

MOTHER』シリーズは文化人でC級コピーライターで有名な糸井重里氏がシナリオと世界観とキャラクターの性格を担当しました。APE社はゲームに限らず、様々な創作物を展開する出版社的な立ち位置で立ち上げられたようです。しかし、ゲーム開発力が無かったので、『MOTHER1』の時には任天堂に開発を委託する形で販売するに至ったらしい。『MOTHER2』以降はHAL研究所が開発を担当して、任天堂が販売を担当する形に移行していきました。『MOTHER2』の段階ではAPE社の業種が出版物という風に確定したからだと思う。元々、APE社には何人かゲームクリエイターが居たそうですが、その人達は任天堂やゲームフリークなどの会社で再雇用される形でバラバラになって、会社自体は消滅したような感じになったらしい。

 

NHKの『みんなの歌』や小学館のポケモン絵本などの販売を続けているスタッフも居ますが、殆どはクリーチャーズの人間だったと思います。

 

分かり易く言うと、糸井さんが立ち上げたAPE社は現在はクリーチャーズという社名に変更されて活動してる感じですね。元々、ゲーム開発には向いていない会社だったので、『MOTHER2』時点で解散になったらしい。

 クリーチャーズは2019年の『ポケモン剣盾』に入ってからは社名クレジットが削除されているので、株式会社ポケモンやゲームフリークと何らかの関係が生まれたのかもしれません。

 



>ポケモンとMOTHERシリーズの関係

岩田社長曰く、「『MOTHER』がなければ、

ポケモンは無かった」そうです。ポケモンというゲームは元々は携帯機でも『MOTHER』が出来る事をコンセプトに開発していたらしい。攻略本などでも田尻智さんが『MOTHER』からリスペクトを受けた旨を発言しています。MOTHERシリーズとポケモンの関係性は深く、『MOTHER2』開発後は殆どの開発スタッフがポケモン関連の会社へ再就職していきました。現(株)ポケ社長の石原プロデューサーもその一人です。APE社の大半のスタッフは糸井さんが新しく立ち上げた出版社とクリーチャーズという会社に流れていきました。MOTHERから影響を受けた田尻さんはポケモンのゲームの随所に『MOTHER』を思わせる要素を置いて行きました。『MOTHER1』のギーグがミュウツーに影響を与えているという話もありましたが、杉森健さんのTwitterでその説は否定されました。しかし、杉森さんの見解の話なので、田尻さんの心の内はどういったものかは不明です。

 

MOTHER2』の開発プログラマーだった岩田社長は計画が難航していた『MOTHER2』のプログラムデータを0からやり直す提案を出して、発売日までにほぼ一人で『MOTHER2』の再開発を行ったという伝説があるらしいです。

 当時のファミコンやスーパーファミコン、ゲームボーイの殆どのゲームソフトは機械語(マシン語)に近いアセンブリ言語でコードが書かれていたそうですが、岩田さんは書籍や資料なしで脳内でアセンブリ言語をC言語に変換してC言語でコードを書き直したという話が任天堂のブログのインタビュー記事に残っていました。

 また当時はeメールシステムが提供されていなかったので、岩田さんが社内用のeメールプログラムを作り上げて、社内の人とのコミュニケーションや報連相の時間短縮を行ったなどの話も残されていました。

 アセンブリ言語についてはCOBOL以上に現代で使用されている事はほぼないプログラミング言語です。

 現在のビデオゲームは3DゲームがUnityと呼ばれる開発エンジンとC#というプログラミング言語などで書かれているそうです。

 ソーシャルゲームのアプリやインディーゲームなどは2Dに近いグラフィックの場合はJavaやPythonなどが多いそうです。

 有名なゲームの『マインクラフト』はJavaでコードが書かれているそうです。

 ちなみに『ポケモン赤緑』の開発言語はアセンブリ言語だそうです。


 

あと、ポケモンの制作スタッフがポケモンと言うゲームを持ち込んだ時は『MOTHER2』の開発段階だったそうで、その時に石原さんと宮本さんに審査して貰って、開発許可が下りたらしい。その縁で石原さんは『MOTHER2』のディレクターから左遷された後に『ポケモン』のプロデューサーになる経緯に至ったそうです。

 

ポケモンの開発段階の世界観思考は既に『ウルトラセブン』と『MOTHER1』と『スタンドバイミー』を掛け合わせた現代風のRPGっていうシミュレーションが出来ていたそうで、1990年段階にはポケモンの企画書と制作思想は田尻さんの頭の中にあったらしいです。

 

 

 

 

>糸井重里氏について

 

20代や10代には馴染みが薄い人ですが、1980年代や1990年代当時は超売れっ子だったコピーライターです。子供の頃はタレントにしか見えませんでしたが、本業は出版社の編集長かつコピーライターというもの。学歴は法政大学の中退でその後に土木作業員のアルバイトをやりながら出版事務所のアシスタントを経由して創作物関連の会社を立ち上げたそうです。メディアへの露出度が比較的高いのはコピーライターという職業柄によるものでしょうね。自身をC級ライターと言って謙遜してますが、実際の世間とネットの評価は天才コピーライターです。この人の印象が強いのは何と言ってもスタジオジブリ作品へのキャッチコピーだと思う。『となりのトトロ』のお父さん役でも有名ですしね。交友関係はかなり多く、MOTHERシリーズ経由で岩田社長ともかなり仲が良いです。海外旅行が趣味の為か、海外からのファンも数多いです。

 

まぁ、今はセミリタイアして手帳の事務所を経営する人みたいな感じになってるけど、昔は色々凄かった人です。色々な大企業のCMのキャッチコピーのフレーズを編み出してきましたしね。

 

90年代初頭には『ギミア・ブレイク』で徳川埋蔵金を掘り出そうとポケットマネーを使って穴を掘りまくってましたしね。

 

私にとっての糸井さんのイメージは穴掘りおじさんのイメージですわ。埋蔵金のイメージが一番強いね。

 

勿論、MOTHERや出版物における文章制作スキルもハイスペックで作家並に語彙力に溢れたユーモアセンスのある面白いおじさんなんだけど、俺にとっての糸井さんのイメージは穴掘りおじさんですね。

 


 

MOTHERについて

 

ファンの著名人が多いゲームですが、売上数は当時は50万本にも満たないそうな。マニアックなファンが多くて、ファンサイトの内容やファンアートなんかも濃いんですが、これは糸井さんの著作物だからっていう心理も大きいんだろうなって思う。MOTHERシリーズをプレイすると分かるんですが、このゲームって世界観だとか人間関係だとか文章に感動するゲームなんですよね。分かり易く言うと、小説みたいなゲームだと思う。だから、売上数に対してファンの母数が多いんだろうなって思う。ゲームジャンルはRPGなんですが、RPGを活かした演出だとか芸の細かさとかがあって古き良きJRPGって感じですね。ゲームが嫌いな人も小説や活字が元々好きならオススメ出来るゲームだと思う。

 

あと、ポケモンのプロトタイプとか言われてるけど、ポケモンとは別物のRPGだと思う。エスパータイプのポケモンとかは「MOTHER」が元ネタなんだろうけど、言うほど似てませんしね。

 

MOTHERは活字や演出、伏線に感動するけど、ポケモンは収集と育成と対戦が醍醐味って感じですね。

 

まぁ、ポケモンが「MOTHER」をオマージュした部分って世界観だとかシステムだとかアイテム辺りだろうな。



>『MOTHER2』と私

 『MOTHER2』を初めて知ったのはキムタクのTVCMだった。ネスの姿や名前を知る事になったのは『スーパードンキーコング2』の攻略本の末尾帯で紹介されていた別のゲームの攻略本を紹介しているページから。ネスを本格的に知る事になり始めたのは1999年の『スマッシュブラザース64』からになる。

 実際に『MOTHER2』をプレイしはじめたのが3DSのバーチャルコンソールからで、それまではプレイした思い出や記憶がない。実際にプレイしたのは成人後、働き始めてからになる。

 糸井重里氏自体はジブリのキャッチコピーや徳川埋蔵金のテレビ企画などで幼少期から知っていたけど、ゲームソフトのシナリオや世界観などまで手掛けている事を実際に知ったのは2000年代ぐらいからだった。

 プレイした感想としては、活字文化やガチ文系の人、児童文学やファンタジーやメルヘンなどが好きな人は好きになる作品だとは思う。

 個人的な意見としては過大評価の大きいシリーズだとは思うが、『ポケモン』を生み出すきっかけの一つになっているから、ゲーム史においては間違いなく重要なゲームシリーズの一つだろう、とは思う。

 『MOTHER1』の時点で現代アメリカを舞台にしたRPGは珍しかったけど、ゲームシステムや戦闘は『ウィザードリィ』や『ドラクエ』を参考にしているから新鮮味はそれほどないとは思った。

 戦闘描写が『ドラクエ』に似ている理由は糸井氏が元々『ドラクエ』のようなRPGを任天堂のゲームで作りたかったから、らしい。

 登場人物の台詞回しや精神世界(マジカント)などの表現は好きな人は好きになるとは思う。

 他の創作物で言うと、さくらももこ作品とかのシュールギャグが好きな人は好きになるゲームだと思う。

 このゲームの影響で『UNDERTALE』や『ゆめにっき』『MOON』『ポケモン』『リサ』などが誕生したと聞くが、確かに世界観は独特だと思う。

 今までのRPGの敵は大抵は殺す場合が多くて倒した敵は二度と出現しない事が多かったが、このゲームの敵は改心したり気絶して終わる事が多い。

 このゲーム以降のRPGは敵が死ぬという表現や描写は極力抑えられるようになっていた気もする。

 まぁ、アトラスの『女神転生』も敵が死ぬどころか仲間になる事が多かったから、1980年代当時から敵をただ殺すRPGしか存在しなかった事はないとは思うが、『MOTHER2』以降は敵を極力殺さない事に努めるRPGも増えた気もする。

 『FF7』発売以前に精神世界を物語の途中に描写したRPGは当時としては珍しかったんじゃないかな、と思う。

 マジカントやギーグについては子供の頃にインフルエンザや風邪でうなされている時に見る夢の表現に似ている感じもする。

 感受性の強い人はそれらのシーンに色々共感するとは思う。

 ポーキーについては同情する人と自分自身を重ね合わせる人と殺意と敵意を抱く人の3通りの解釈に分かれるそうだが、自分は自分自身を重ね合わせる人のタイプだった。

 このポーキーの性格とマジカントに出てくる喋る花を組み合わせたキャラクターが『UNDERTALE』のフラウィーになる。

 『MOTHER2』や『UNDERTALE』の影響で私はJavaでインディーゲームのスマホアプリを開発しようと大人になってから試行錯誤しているが、これがかなり難しい。

 今の時代はプログラムもシナリオも音楽もキャラクターも台詞回しも全て一人で作ろうと思えば作れるが、いつの時代にも人には適材適所があるんだとは思う。

 『UNDERTALE』をほぼ一人で手掛けたToby Fox氏については正直化け物だとは思っている。


 『MOTHER1』の時点で超能力(PSI)やUMA、宇宙人、オーパーツなどのオカルト要素を織り込んでいた訳だが、当時としてはかなり斬新だったんじゃないかな、とは思う。

 当時のRPGは魔法が超能力の役割になっていてそれが当たり前だったんだけど、『MOTHER』シリーズでは超能力が魔法の扱いになっている。

 超能力を魔法と同じ扱いにする発想は普通では中々思いつかないとは思った。

 当時のゲームは大体は中世ファンタジーとかメルヘンとか妖怪なんかが多くて現代で流行っている都市伝説とかUMAとか宇宙人をRPGやゲームに取り込む作品はあまりなかった。

 ポケモンのエスパータイプとか技回数のPPもおそらくは『MOTHER』がなければなかったとは思う。

 現代で超能力というと、普通はテレパシーやテレポート、幽体離脱なんかのイメージしかない訳で、人体から炎や氷や流星群などを放出させるイメージはこのゲームシリーズが出てくるまでなかった。

 あと、このゲームシリーズのテレポートは距離を必要とする移動だが、これは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のデロリアンのタイムスリップ方式をオマージュした方法になっているらしい。

 このゲームシリーズでは懐かしいハリウッド映画や洋楽のオマージュやパロディも多い。

 著作権などが緩かった時代に出来た事でもあるんだろう、とも思う。

 ゲームは1993年以内に発売する予定だったらしいが、開発が難航して半年遅れになったらしい。

ゲームが完成した裏話については他のトピックで語ったとおりである。

 ゲーム内にもある『MOTHER3』の開発宣伝が1990年代に達成する事はなく、続編の『MOTHER3』も開発が難航して2006年のGBAの発売になった。

 しかも、シナリオの大半を削減しての発売なので、未完成品とも言えるのかもしれない。

 『MOTHER3』はニンテンドー64で1998年頃に発売する予定だったとかいう話も聞くし、TVCMも見た気がするが、64版が発売される事はなかった。

 64は3Dなので、GBA版は0からプログラムを作り直している事になる。

 おそらく『MOTHER3』は岩田さんが任天堂の社長に就任していなければ発売さえもしなかったとは思う。


 『MOTHER3』はシリーズファンからの批判が多いが、私は鬱な物語が大好きだったので、割と好きだった。

 『MOTHER』シリーズは物語の内容が割と暗くて湿っぽいので、『1』や『2』が明るくて健全なのか? と言うと、割とそうでもない。

 『MOTHER3』があまり好まれない理由としては、アンドーナツ博士の性格改変とかポーキーの変化とか生命倫理のタブーを冒したこととか死者が多いことだとか、大体はそういう感じだと思う。

 64版はGBA版よりも更に内容がハードで暗くなる予定だったらしいので、当時の糸井さんの心境も穏やかではなかったのだろう。

 ただ、『MOTHER3』の元ネタというか、下敷き作品は『悪童物語』とかいう古い小説? 児童文学? が下敷きになっているそうなので、その内容自体が元々暗いのかもしれない。

 『ファイナルファンタジー6』と同じく群像劇になっているので、明確な主人公が居ない。だが、1章と後半の章のプレイヤーキャラがリュカ(『MOTHER3』の主人公のデフォルトネーム)になるので、彼が作品の代表的なキャラクターなんだろう、とは思う。

 『MOTHER3』にネスやその仲間が登場する事はないが、64版ではそのネスさえも死ぬ予定だったらしいから、64版が世に出ていない方が良かったのかもしれない。

 『MOTHER3』ではアンドーナツ博士やポーキーが出てくるが、『MOTHER2』でのキャラクターの性格が違い過ぎて性格改変やキャラ崩壊などと言う人も居るらしい。

 しかも、それらのキャラクターが物語の根幹に関わっている訳だから、批判者も割と多いのだろう、とは思う。

 株を間違いなく大きく下げたのはポーキーだとは思う。悪役としての魅力度や人気は『MOTHER3』で上がったとも言える。

 結局、ポーキーを『MOTHER3』で救う事は出来なかったが、このキャラクターに影響されて生み出された後世のゲームのキャラクターは作品内で救済されている事が多い。


 ポーキーやギーグについては今までの任天堂の作品にはなかった珍しいタイプの悪役とも思った。

 任天堂の作品の悪役はどちらかと言うと、勧善懲悪の完全な悪役と物語当初から定義されているキャラクターばかりだったのだが、ポーキーやギーグは悪役になってしまった過程や設定があり、複雑な背景がある。

 『MOTHER』シリーズは子供向けに作られたゲームだが、キャラクター一人一人に複雑な背景や凝った設定などがある事から大人になってからもファンになる人が多いんだろうし、大人になってからプレイする人も多いのだろう、とは思う。

 他の創作物で言うと、「ガンダム」シリーズやアメコミ作品の悪役などに近いと言える。

 悪なんだけど、悪を生み出した原因が社会や世界、家庭にあると言ったタイプの悪役でプレイヤーの同情を誘うタイプだった。

 他のゲームで言うと、『ファイナルファンタジー6』以降の悪役とか最近の『ポケモン』とか『ペルソナ』とか『メタルギア』シリーズみたいな感じだと思う。

 グラフィックやテキスト描写が技術の進歩で工夫出来るようになった事もあるんだろうし、大人がプレイする時代になった背景もあるんだろうけど、『MOTHER』シリーズは任天堂の作品では珍しく勧善懲悪で終わらないタイプの悪役が出てくるゲームだとは感じた。


 プレイしていて斬新だと感じた事はななめ移動が出来ることだろうか。『MOTHER1』の時点でななめ移動が可能だった訳だが、当時としてはこういう移動が行えるRPGは珍しく、技術的にも恐ろしく難しいんじゃないか、とは思った。

 『MOTHER2』をプレイしていて感じた事は現代でプレイしていても大して目が疲れない発色の仕方とかドット絵の美麗さとかキャラクターの見易さだと思う。

 1994年時点で目が疲れ難いドット絵とかが入っているゲームも当時としては珍しかったんじゃないかな、とか思う。

 欠点を言うとすれば、アイテム管理のし難さとかアイテムを複数購入出来ないことだとかセーブポイントが町や一部のダンジョンにしか存在しないこととかだと思う。

 あとはアイテムの種類が多い割には無駄なアイテムやフラグを立てなければ使えないアイテムが多い事もこのゲームでストレスが溜まるポイントだろうな、とは思った。

 任天堂のゲームはライトユーザーや子供にも配慮した親切な設計のゲームが多いのだが、このゲームのアイテム関係やフラグとかは攻略本や攻略サイトや動画などを確認しなければ理解出来ないことが多いので、攻略本や攻略サイトは必須だとは思う。

 初代ポケモンとポケモン金銀も『MOTHER』をベースにしたせいかアイテム管理がかなり面倒だったが、『MOTHER2』の場合はアイテムの入出庫が3個と限定されている上に金まで取られるので、ユーザーには色々不親切だとは思った。

 アイテム管理と言えば、『ポケモン』もアイテム管理はかなり面倒だった。

 アイテム管理がようやく楽になったのは『ルビー・サファイア』からになる。


 あとはテキストボックスだろうか。黒背景に白文字の上にフォントが読み難くて字が小さいので、文字を読む時は読み難いし目が疲れ易い。

 あとはキャラクター名を入れて台詞を喋らせないからたまに誰が喋っているのか分からない時もあったりはする。

 キャラクターの動きやドット絵は綺麗だが、テキストボックスやテキストの文字は長文の場合は目が疲れ易いし文字が読み辛い。

 『ファイナルファンタジー』の『4』とか『5』とかファミコン版もかなり読み難かったので、当時のスーパーファミコンのスペックや容量の限界なのかもしれない。

 しかも、文章は糸井節なので、それが長文で句読点などが少ない場合は初回で理解するのに時間がかかる場合もあるかもしれない。

 『MOTHER2』のリメイクやHDリマスターの希望が多いのは多分、テキストとかアイテム関係辺りだとは思う。

 まぁ、昔のゲームに手を加えると色々なバグが発生するから移植で改善が可能になるのはテキストボックスやフォント関係辺りだとは思う。




 

>ネスが出演する作品

 MOTHER2-ギーグの逆襲-・・・・・・・・・・1994年、SFC(スーパーファミコン)

 

続編の『MOTHER3』では名前と映像だけはキャラクターの会話や劇中劇で描かれているが、本人は登場しない。続編と前編は『MOTHER2』とは別の世界での物語になっている。しかし、『MOTHER3』は『MOTHER2』に出てきたポーキーとアン・ドーナッツ博士が出演するので、『MOTHER2』の要素は『3』にも様々な場所で出てくる。

 

 

 

 

>関係者・関係会社各位

 

・任天堂・・・・・・・・・・販売元(ファーストパーティ)

 

APE・・・・・・・・・・・企画元(糸井重里と任天堂が出資した会社。『MOTHER2』開発後に解散して株式会社クリーチャーズとなる)

 

HAL研究所・・・・・・・・開発元(プログラムコードや音楽、グラフィックなどは全てこの会社の担当になっていた。APEはキャラクターデザインや企画・脚本・設定などを担当)

 

・糸井重里・・・・・・・・・主な製作者。『MOTHER』シリーズの産みの親。脚本や台詞回しは全て彼が考えた。ネスやポーキーの設定の産みの親。

 

・岩田聡・・・・・・・・・・・プログラマ。現任天堂社長。元HAL研究所のプログラマ兼社長。一人で『MOTHER2』のプログラムコードを0からやり直した実績を持つ。

 

・石原恒和・・・・・・・・・『MOTHER2』開発当時のディレクター。製作進行の遅延と岩田氏との意見の食い違いからディレクターを降板した。彼は『MOTHER2』のバグやプログラムコードの欠陥を一つずつ修復する案を出していたが、岩田氏に反対されて0から作り直す計画に変更された。責任を取る形でディレクター職を降りるが、後に『ポケモン』シリーズのディレクターに抜擢される。その後、株式会社ポケモンの社長になった。

 

・山内博・・・・・・・・・・任天堂の元社長。とあるテレビ番組で出演者の多くがテレビゲームを批判している中で糸井のみがテレビゲームを擁護するコメントをした。それが気に入った山内は糸井を任天堂に招いてゲーム製作に協力して貰う形を取る事になった。この交流がきっかけで『MOTHER』シリーズが誕生したという逸話が残る。


>著作権

©糸井重里/APE

©Nintendo

©Deathnicle/Gariusu Marutis


*キャラクターの著作権は糸井重里氏及び運営団体、その運営企業。amiiboの商標権及び『スマブラ』関係の著作権はすべて任天堂が所有・帰属しております。

 画像及びテキストなどの著作権に関しては全てガリウス・マルティス及び『デスニクル』にあります。

 商業利用及び個人の使用目的以外での無断使用や無断引用、無断転載などは絶対に行わないでください。

amiibo:パックマン(PAC-MAN)






















>ゲームの歴史

 

日本のビデオゲームの歴史は1970

代から始まったと言われています。戦前の娯楽の流行はお芝居(歌舞伎や能)から始まり、小説→スポーツ→ラジオ→映画→漫画→アニメ→テレビ→舞台劇→音楽と言った具合に戦前と同じような家電や趣味ばかりが再流行していました。アメリカでは本土自体が第二次世界大戦の波に呑まれていた訳ではないので、いずれの娯楽も戦前の使い尽くされたジャンルばかりだったので、飽きられ始めていました。もちろん、それぞれの媒体は家電や科学技術の発展で内容密度が濃くなり、進化していた面も強調されていましたが、アメリカでは既に流行遅れの娯楽ばかりでした。

 

そこで誕生したのがゲームという新しいジャンルです。ゲームの歴史自体は古代エジプトや古代メソポタミアから始まっており、双六やサイコロなんかがゲームと呼ばれていた時代もありました。ゲームの定義とジャンルが明確化されたのは電子部品を利用した遊具を操作するビデオゲームからです。現在では一般的にゲームと言うと、電子部品を利用した画面上の機器あるいは遊具そのものを指します。

 

ビデオゲーム(電子ゲーム)の元祖はバーや酒場に導入された「PON」というシンプルなゲーム機器からです。アーケード機器の先祖とも言えるでしょう。スティックを動かして、一つの玉をゴールに目がけて打つというシンプルなゲームですが、この「PON」の登場がなければ、ビデオゲーム(テレビゲーム)業界は起こらなかったとも言われています。

 

アメリカの酒場やバーに「PON」を発展させたアーケードゲーム機器が次から次へと導入されていきました。やがてアメリカではそれを家庭用ゲーム機に発展させたゲーム機も販売されるようになりますが、アメリカのゲーム機は1980年代に起こった「アタリショック事件」以降に開発・販売されなくなります。最近ではマイクロソフトが市場参入しましたが、ごく最近の話です。

 

日本では戦後復興から約30年経った1978年に『スペースインベーダー』が発売されます。これはタイトーから発売されたシューティングゲームで、日本においてはゲーム業界による初めての社会現象になったゲームと言われています。タイトーは現在ではスクウェア・エニックスに吸収合併されて子会社化しました。タイトー以外にも名作やさまざまな社会現象を巻き起こしたハドソンはコナミに買収されました。コンパイルもセガに版権を買収されて倒産していきました。アトラスはセガの子会社にされて、セガ自身もパチンコメーカーのサミーと合併しています。有名なゲーム会社はタイトー以外にも次々と倒産したり買収されたり吸収合併されていきました。現在残っている日本のゲーム会社はわずかでしょう。

 独立している大手のゲーム企業は任天堂、カプコン、コナミぐらいで、任天堂以外のゲーム会社も副業という形でゲーム以外の別の事業を行わなければ企業存続が難しい時代になっています。

 コナミはスポーツジム運営、コーエーは歴史及び観光事業の協力、スクエニは出版と玩具、洋ゲーの翻訳ローカライズなど、カプコンはソシャゲやパチンコ関係、セガはゲーセン、バンナムは玩具やキャラクタービジネス、ソニーは本事業が元々ゲームじゃないといった具合。

 


『スペースインベーダー』の頃にはキャラクターが存在して、設定やストーリーが背景にあるゲームも生まれ始めたと言われています。それ以前のゲーム業界は明確なキャラクターやストーリー、設定、ルールなどが存在しなかったと言われています。つまり、ゲーム業界の主導権はキャラクターやストーリー、設定などを発掘した日本にアメリカから移った訳です。ゲーム業界はこの頃から日本の主要産業として華を開き始めました。ファミコンで成功した任天堂も既に山内博前社長が業界参入に乗り出し始めていました。

 

1980年には任天堂が『ゲーム&ウォッチ』を販売。世界で4000万台以上を売り上げるLSIゲームとして知られています。同年にはナムコからアーケードゲーム向けに『パックマン』が導入されます。パックマンはゲーム史における初めて手足を持ったキャラクターだとされています。地球史に例えるなら、スペースインベーダーが魚類、パックマンが両生類という感じです。実際にパックマンは両生類のように魚類的な特徴も持ち合わせていました。実際のゲームでは手足がない状態で画面上を自由自在に動く生物のようなキャラクターでした。しかし、ポスターやガイドブックなどでの公式イラストでは既に手足は持っていたようです。『パックマン』以降のゲームでは手足を持つスクロール形式の画面で動くキャラクターが一般的になりますが、『パックマン』以前のゲームでは縦横の全画面対応と身体全体しか動かさないキャラクターのゲームが一般的でした。その理由はゲーム産業が業務用ゲーム機のアーケードから家庭用ゲーム機に移行した為です。テレビの画面に合わせてキャラクターを操作するので、横操作しか出来ないスクロール画面でしかキャラクターを動かせなかったのです。

 

1985年には任天堂が家庭用ビデオゲーム機の『ファミリーコンピューター』を発売します。アメリカでは既に「アタリショック事件」でテレビゲーム機自体が廃れる雰囲気でしたが、日本での成功を機にアメリカにも導入すると、たちまちテレビゲーム機の熱が入ったようです。同時にアーケードゲームやゲームセンターが廃れる原因にもなりました。ファミコンが導入された時期からビデオゲームは娯楽や趣味の主要なジャンルとして追加されていきました。しかし、アーケード時代からゲームの危険性や有害性を主張するメディアや著名人が多かったので、家庭によってはゲームが制限されていた世帯も珍しくなかったようです。漫画の社会的なイメージを変革させることに成功した手塚治虫でさえも当初はビデオゲームの反対論者でした。しかし、ビデオゲームの有害な社会イメージは任天堂が手塚と同じやり口で変革させることに成功します。手塚は自身が医師免許を所有して教養性の高い漫画を次々に発表させていくことで漫画の有害な社会イメージを変えさせることに成功しました。手塚が願う漫画への高尚かつ教養的なメッセージの継承はトキワ壮の弟子達にも伝えられて、愛弟子の藤子・F・不二雄が漫画の有害なイメージを払拭させることに成功させました。

 

任天堂も手塚と同じ思惑でゲームに教養性と高尚なイメージを持たせる為にイメージ戦略を工夫することに努力していきました。2000年代後半に登場した「ニンテンドーDS」と「Wii」に身体を強制的に動かせる周辺機器やコントローラーを導入したり、ゲームソフトに文学やハウツー形式、勉強に特化した安価なソフトを導入したのです。この試みは日本でも海外でも大成功して、2000年代後半には老若男女の殆どがDSWiiを所有する社会現象にもなりました。

 

さて、時は戻って、1985年には『スーパーマリオブラザーズ」をファミコン用ソフトとして販売します。このゲームは1981年にアメリカのアーケードで成功していた『ドンキーコング』の正当な続編になっていて、主人公がゴリラから配管工のヒゲ親父に移りました。名前はマリオ・マリオ。今や任天堂の看板キャラとなったあのマリオです。マリオブラザーズのゲームは世界中で成功し、ゲーム界のミッキーマウスの立場もパックマンからマリオブラザーズへと移行していきました。マリオブラザーズを初めとする任天堂のソフトはいずれも高クオリティかつ安定的な難易度であり、日本でもアメリカでも愛されるようになりました。アメリカでは1986年以降に『ゼルダの伝説』と『メトロイド』が大ヒットします。日本ではスクウェア・エニックスの『ドラゴンクエスト3』がソフトが買えなくなるほどの社会現象化していました。

 

ブランド志向の強い日本人には受けなかったセガハードの「メガドライブ」と『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』は1990年代前半にアメリカで大ヒットを飛ばしました。一方の日本では携帯ゲーム機市場にも参入した任天堂の「ゲームボーイ」がヒットしてました。

 

1990年代後半には任天堂と契約関係が破棄されたソニーが家庭用ゲーム機の「プレイステーション」を販売して、任天堂からゲーム業界のシェアを奪うことに成功します。1999年には1980年代から活躍していたセガがゲームハード事業から撤退することになります。テレビゲーム機で苦戦を強いられていた任天堂は1990年に登場したスーパーファミコンを1996年まで延命させて、「ゲームボーイ」では『ポケットモンスター』を発売させることでシェアを維持することに成功しました。テレビゲーム機では1996年のニンテンドー64以降、ソニーやセガのハードにシェアを逆転されていましたが、携帯ゲーム機では『ポケモン』が社会現象化したので、シェアを維持することには成功していました。

 

この『ポケットモンスター』はメディアミックス化に成功した初めてのゲーム作品でした。アメリカでは既にゲームソフトの名作たちが独自にアニメ化されたりアメコミ化されていましたが、日本でゲーム作品がアニメ化されてメディアミックス化にも大成功したのは『ポケモン』だけと言われています。ポケモンはアメリカにも輸入されましたが、アメリカで売れなかったゲームボーイも市場が活性化されたようです。アメリカでは携帯ゲーム機よりもテレビゲーム機のほうがポピュラーらしいです。

 

2000年代前半にはDVDプレーヤー機能を搭載したPS2が即日売り切れになるほどの大盛況になりました。セガがハード事業から撤退した代わりにパソコンメーカーだったマイクロソフトはゲームハード事業に参入することになります。アメリカのゲームメーカーがハードのシェア争いに介入するのは「アタリショック」以来でしょうね。任天堂はようやくCD-ROMの光ディスクを搭載したゲームハードの「ゲームキューブ」を発売しますが、サードパーティは既にソニーのPS2に開発路線を移しており、「ゲームキューブ」では殆どが任天堂製のゲームソフトしか発売されない事態になります。ニンテンドー64で発売した『どうぶつの森』が500万本以上を売り上げる社会現象になるのはニンテンドーDSの『おいでよ どうぶつの森」からです。

 

2006年にはソニーが次世代機のPS3を発売しますが、値段が高すぎる上に初期不良が多く、PS2との互換性がないマイナーチェンジ版まで発売されたので、ユーザーがソニーハードから撤退するようになります。一応、2009年にはキラーソフトの『モンスターハンター2G』でソニーのPSPがバカ売れするようになりますが、その頃まではソニーハードがPS2PS1並に売れるということはありませんでした。PS2からのユーザーは既にPSPへ移行してたりもして、PS3へ移行することは稀になっていました。PSPはマルチメディアプレーヤーとしてゲーム以外にUMDアニメや音楽プレーヤー、動画編集や動画再生、ネット機能などのスマホ並のスペックがあったので、家電コンプのユーザーからは人気の高いゲームハードでした。モンハンが登場する以前からPSPはそこそこ売れていましたが、任天堂のニンテンドーDSよりはシェアが高くありませんでした。

 

任天堂も2004年にニンテンドーDSという次世代ポケットゲーム機を販売してシェア奪還を狙います。この試みは見事に成功しました。ゲームの娯楽に持たれる有害なイメージを知育ソフトの普及で払拭することに成功しました。DSには前世代ハードのゲームボーイアドバンスとの互換性もあったので、『ポケモン』などの前世代ソフトとの通信があるソフトのユーザーにも大ヒットしました。2006年にはテレビゲーム機のWiiを発売します。このゲーム機はPS3と違って、値段が2万円以下という安価な値段とファミコン~ニンテンドー64までのソフトをエミュレーター形式でダウンロード出来る「バーチャルコンソール」とWiiFitWiiSportsなどの身体を動かせるゲームソフトがあったので、ゲーマーから老若男女にまで幅広く売れるゲーム機となりました。『WiiFit』や『WiiSports』はゲームソフトの売り上げランキングでベスト5に入るほどの超人気ソフトでした。

 

2010年代にはソニーがPS VitaPS4を発売します。PS Vitaは値下げ戦略により普及し始めたポケットゲーム機ですが、キラーソフトが無い上に現代はスマホやタブレットパソコンなどのマルチメディアプレーヤーが普及しているので、PSVitaPSPよりシェアを確保するのが難しいようです。PS4は値段が高価な上にゲームソフトもPS3同様に洋ゲー中心になっているので、日本では普及し難いようです。これはPS4の技術力やスペックが高過ぎるために日本国内のメーカーが開発費や開発力を維持できない為だとも言われているようです。

 

任天堂はポケットゲーム機に「ニンテンドー3DS」を発売します。このゲーム機はサードパーティも数多くのゲームソフトを提供するようになり、PSPのキラーソフトだった「モンハン」もこのゲーム機で発売されるようになりました。バーチャルコンソール機能では「ゲームボーイ」と「ゲームギア」と「ファミコン」と「PCエンジン」を導入。しかし、新作ソフトが充実してるせいか、Wiiほど展開することは少ないようです。据え置きゲームハードでは「WiiU」を発売しますが、任天堂ハードでは初めての2万円越えのハードの上、周辺機器やコントローラーが別売りのせいか日本でも世界でも普及し難いハードのようです。個人的には「ゲームキューブ」以上の負けハードじゃないかと思います。携帯ゲーム機では新作提供していたサードパーティも「WiiU」ではあまり提供しないようですね。PS3と同じで、洋ゲーからのソフト提供のほうが多いイメージがあります。HD画質ですが、PS3以下のスペック及びグラフィックだとは思うので、PS3よりは画質や画素数はそれ程高くないんじゃないかと思う。任天堂自身もゲーム開発するのが難しいせいか、移植物か続編作品が多い印象のあるハードです。主に任天堂の外注作品ばかりがゲームソフトを占めてるハードだと思います。任天堂自身が開発まで担当しているソフトは今のところマリオ系ぐらいしかないと思う。




>パックマンとは?

『パックマン』とは1980年にナムコか

ら稼働開始されたアーケードゲーム用のゲームタイトルの事です。アーケードとは業務用ゲーム機の意味でゲームセンターに入ってるゲームを指します。元々テレビゲームは業務用ゲーム機として行楽地やゲームセンター、酒場なんかに導入された”遊び”でした。この新しい遊びが麻薬中毒のように夢中になったのはアメリカの「PON」が起源だと言われています。「PON」は後にブロック崩しゲームとして進化してパソコンゲームの定番の遊びになっていきました。

 

1978年には日本のタイトーが『スペースインベーダー』を稼働しました。当時の日本はゲームセンターが少なく、喫茶店に導入されていたので、このゲームに夢中になった当時の中高生は多かったです。その中に入っていたのが『ポケモン』を生み出した田尻智で、彼は後に喫茶店ゲームの攻略情報を載せた同人誌「ゲームフリーク」を配布して多少の利益を挙げていきました。後に実際に家庭用ゲーム機のゲームソフト開発にも積極的に関わるようになっていきました。

 

タイトーは『スペースインベーダー』や『パズルポン』などのゲームで成功する大企業でしたが、2000年代には業績悪化して『ファイナルファンタジー』や『ドラゴンクエスト』で有名なスクウェア・エニックス社に買収されて子会社化していきました。

 

当時はビデオゲーム自体が黎明期だったので、このジャンルのビジネスで儲けようとする会社は多くありませんでした。本格的に日本でもビデオゲームだけでビジネスを確立させる会社が増えたのは1980年の『パックマン』からだと言われています。

 

『スペースインベーダー』から2年後の1980年にはナムコから『パックマン』が業務用ゲームタイトルとして全国稼働しました。

 

『スペースインベーダー』よりルールが複雑化して敵に強い時もあるが、弱くなる時もあるといった変化的なこのゲームに大人も子供も夢中になりました。

 

『パックマン』は日米で大成功して、『スペースインベーダー』のように社会現象にはなりませんでした。しかし、後世においてルールが複雑化して操作するキャラクターが生き物のように動き回るという意味では『パックマン』が最初だったと言えるでしょうね。

 

それまでのゲームでは規則的な動きをするキャラクターしか居らず、独自の世界観や生き物のように感情を表すキャラクターのゲームというのはありませんでした。キャラクター性があって、不規則な動きが可能になったゲームというのは『パックマン』が最初になります。

 

アメリカではポスターに書かれたキャラクターデザインやパックマンのシンプルで独特なデザインから「ゲーム界のミッキーマウス」として信仰されるようになりました。日本では1980年代のミッキーマウスと呼ばれてたそうですが、ミッキーの肩書きは後にマリオに移っていく事になります。

 

『パックマン』を導入したゲームセンターや喫茶店は、なんと全世界で26万台だそうです。売上実績は不明ですが、ゲーム機の基盤とか匿体が1千万とかかかる時代だったらしいから、経常利益はかなりのものだったんじゃないかと思う。

 

『パックマン』はゲーム界が発展・普及していくにつれてゲームセンターから姿を消して、任天堂のゲームハードで活躍するマイナーゲームに変化していきましたが、ゲーム業界以外でのパックマンの存在は凄まじかったです。

 

1990年代にはアメリカのチンパンジー研究所で『パックマン』で遊ぶチンパンジーが世界中のメディアから注目されるようになりました。厳密にはボノボという猿なのですが、この猿はパックマンが強くなる条件と敵を倒す方法というのを心得ていて、ゲームに敗北すると悔しがる光景も映像記録として残っています。

 

2010年代にはアメリカのインターネット最大手会社「Google」がパックマンとコラボした事で話題になりました。このコラボはパックマンを実際の地図で操作するというゲームで期間限定で遊べました。また、パソコンの最大手メーカー「Apple」もパックマンのロゴマークをMACパソコンのCMでコラボさせる事に成功していました。

 

パックマンは日本では廃れたゲームでしたが、ソニックと同じでアメリカを中心とする英語圏の国の人々からは未だに尊敬と敬愛されている素晴らしいゲームになっています。

 

パックマンがスマブラ参戦した時もアメリカの多くのユーザーがソニック、ロックマン、リトルマックに続いて発狂していました。

 

アメリカでは今でもかなりの大人気ゲームみたいです。

 

1980年のパックマンブームが終わると、任天堂はLSIゲームの『ゲーム&ウォッチ』を販売します。その後、ビデオゲームの流れはアーケードからテレビゲーム機や携帯ゲーム機へ移行していき、2000年代にはパソコンやスマートフォンのゲームへ分散・多様化していく事になります。

 

ちなみに宮本茂さんは『パックマン』の大ファンだそうで、田尻智さんと同じようにナムコへ就職する事も検討していた事があったらしいです。

 

しかし、ビデオゲームの歴史を振り返ると、1985年に登場した『スーパーマリオ』や『ゼルダの伝説』、『ポケットモンスター』などが日本やアメリカで大人気になった背景を考えると、宮本さんや田尻さんは任天堂やそれ関連の会社入社で良かったと思います。

 


 

>バンダイナムコゲームスとは?

任天堂にとってのサードパーティ(他社)です。パックマンはバンダイナムコゲームスのキャラクター・著作権にあたります。

 

アメリカでは「ナムコバンダイゲームス」という社名らしいです。アメリカでは未だにナムコブランドは強いようでバンダイの方が無名という扱いらしいです。バンダイは玩具やガンダムの商品化に強い会社ですが、2000年代にナムコを買収する形で合併しました。出資はバンダイの方が強いようですが、アメリカでは今でもナムコが大人気らしいので、社名は「ナムコ」が先頭になっているようです。

 

ナムコ自体は生粋のゲームメーカーですが、セガやカプコンと同じくゲームセンターを運営しています。かつてはテーマパークも運営していた事があったそうです。この会社の代表作は『パックマン』や『アイドルマスター』、『風のクロノア』、『テイルズ・オブ・ファンタジア』、『ドルアーガの塔』、『太鼓の達人』などのゲーム作品です。

 

テイルズはバンダイのゲームだった気がしますが、確かナムコだったと思う。一般人にとってよく知られているゲームは『パックマン』ぐらいなので、スクエニやカプコン、任天堂辺りと比較するとメジャー級のゲームタイトルが少ない会社です。

 

ソニック一強のセガと似た感じの大手ゲーム会社って感じですが、『パックマン』の実績と成果を考えると、十分すぎるぐらいの偉業を果たしたゲーム会社なんじゃないかと思います。

 

ゲーム専門家の方々の意見を聞くと、『パックマン』はゲーム界で初めてキャラクターと世界観を持ったゲームであるという意見が多いです。他には複雑なルールを採用したゲームも『パックマン』が初めてだそうです。

 

それまでのゲームは単純なルールが多く、変化に乏しいゲームばかりでした。要するにアイテムだとか時間制限だとか敵を倒すとパワーアップという要素がそれまでのビデオゲームには無かったそうなんですよね。

 

あと、『パックマン』以前のゲームはあくまでもトランプや双六のような”遊び”の範疇で遊ぶゲームが多かったんですが、『パックマン』以降のゲームは漫画やアニメと同じ創作ジャンルとして取り扱われる事が多くなりました。

 

それによって、創造性と芸術性と感受性が豊かな優れたゲームクリエイターがゲーム会社で活躍するようになって、ビデオゲームは漫画やアニメ以上に人々に感動を与える創作になったとも言われていますね。

 

ストーリーだとか感動性が本格的に始まったのはスーパーファミコンやPS1の頃からだと思いますが、ファミコンの時点で作家に近い職業だった糸井重里さんがゲーム作りに関わっている時点でゲームで感動出来る行為自体はファミコン時代には始まっていたと思う。

 

『パックマン』が後世に与えた影響は相当大きいでしょう。今日でこそ、ゲームは漫画やアニメや映画と同じ創作ジャンルとして見られていますが、『パックマン』が現れなければゲームは未だにトランプや双六と同じ”遊び”の範疇から抜け出せなかったでしょうからね。

 

『パックマン』はそういう意味だと、ゲーム世界の革命児だと呼べるでしょうね。パックマンがゲーム界を変革させた偉業に達成したゲームって未だに存在しないと思いますし。

 



>パックマンが主演・登場する主な作品

 

・パックマン・・・・・・・・・アーケード、1980

 

・スーパーパックマン・・・・・・・・・アーケード、1981

 

・パック&パル・・・・・・・・・アーケード、1982

 

・パックマニア・・・・・・・・・アーケード、1983

 

・パックマンアレンジメント・・・・・・・・・『ナムコクラシックコレクションVol.2』に収録されている、1984年、アーケード

 

・パックマンVS・・・・・・・・・・2001年、ゲームキューブ

 

・パックマンアレンジメント・・・・・・・・『ナムコミュージアムコレクション』に収録、2004年、PSP

 

・パックマンアレンジメントプラス・・・・・・・『ナムコミュージアムコレクションVol.2』に収録、2005年、PSP

 

・パックマンチャンピオンシップエディション・・・・・・・・・・PSN/XBLA2006

 

・パックマンバトルロイヤル・・・・・・・・・・2011年、アーケード

 


 

>関係者・関係会社各位

 

・バンダイナムコゲームス・・・・・・・・・開発元・販売元(サードパーティ)。ナムコがバンダイと合併して「バンダイナムコゲームス」という会社になった。しかし、実質バンダイに買収されたと思う。

 

・任天堂・・・・・・・・・・・・・ナムコに任天堂ハードでの販売とソフト開発を許可している。ソニーがハード事業で優勢になると、サードパーティで一番早くにソニーハードでナムコがソフト提供した。

 

・岩谷徹・・・・・・・・・・・パックマンの産みの親。お昼ごはんに出前ピザを注文して一つのピースを食べた後に余ったピザの形を見て『パックマン』を思い付いたという逸話が残っている。それが由縁でドット絵のパックマンをピザ欠けパックマンとも呼ぶ。

 

・宮本茂・・・・・・・・・・・彼の就職先の第一希望が「ナムコ」だったことは有名な話。宮本は後に任天堂に就職して、「マリオシリーズ」と「ゼルダシリーズ」の産みの親となった。

 

・田尻智・・・・・・・・・・・・宮本と同じく、彼の最初の就職希望先が「ナムコ」だった。その為、最初に発売した『クインティ』というゲームもナムコが販売元で発売している。田尻が結成した株式会社ゲームフリークは任天堂のゲームハード以外にソニーのPSハードやセガのセガサターンなどにもソフトを提供していき、3本柱の構えでゲームソフトを販売展開していった。1996年には任天堂の下で『ポケットモンスター』を開発して、大ヒットする。

 

・ボノボ・・・・・・・・チンパンジー属の類人猿。人類以外で『パックマン』を操作出来る動物。『パックマン』の複雑なルールを理解して、遊んでる最中に感情表現を見せる事も出来たという。

 

Google・・・・・・・・『パックマン』が好きなIT系の大企業。Googleの検索エンジンでは『パックマン』とコラボした単発のゲームをGoogleマップで再現した。

 

Apple・・・・・・・・・・MACIpodIphoneなどのデジタルデバイスを開発・販売しているIT系の大企業。CMで『パックマン』とコラボしてピザ欠けパックマンのマークをMACのシンボルマークに利用していた事がある。


>著作権

©Bandai Namco Games

©Nintendo

©Deathnicle/Gariusu Marutis


*キャラクターの著作権はバンダイナムコゲームス。amiiboの商標権及び『スマブラ』関係の著作権は任天堂が所有・帰属しております。

 画像及びテキストなどの著作権に関しては全てガリウス・マルティス及び『デスニクル』にあります。

 商業利用及び個人目的以外での使用や引用、転載などは絶対に行わないでください。